2009年12月03日

善光寺40年前(番外編)

 ずっとずっと気になっていても行けなかった場所というものがあります。
善光寺40年前番外編

 善光寺の裏山・・・かつて長野市民のレジャーランドだった地附山・・最終回





 昭和60年、大規模な地滑りによって多くの命と家が失われ、飯綱、戸隠の観光の生命線だった戸隠有料道路・・・バードラインが消えてから20年以上。

 数十年ぶりに懐かしの地附山の山頂を訪ね、下山したところで見つけたのが「戸隠有料道路入口」の木製の看板。
 地滑り跡地の近くにあるプレハブの公民館の壁にとりつけてありました。

 バードライン経由戸隠行きのバスに乗ってロープウェイ乗り場を過ぎ、老人ホームのバス停を過ぎると、バスはSBC通り方面から須坂、志賀高原を見渡すカーブにさしかかります。
 カーブには料金所とこの看板がありました。





 ずっと長野にお住まいだった方は、この看板の存在をご存じだったと思いますが、30年ぶりに長野に帰ってきた私にとって、あまりに懐かしく、しばし看板の前で立ち止まってしまいました。

 地附山の山頂を歩きながら、地附山がレジャーランドとして活気にあふれる山だっただけに、懐かしさと同時に、寂しさも感じていました。
 でも、このカーブから見える志賀高原、菅平、千曲川の変わらぬ景色がいつまでも残っていくと思うと、なんだか元気が出てきました。






http://shikaku-links.side6.jp/  


Posted by kasayan at 20:51Comments(0)昭和の長野へ

2009年12月02日

善光寺40年前(番外編)

 ずっとずっと気になっていても行けなかった場所というものがあります。
今日も引き続き善光寺40年前番外編

 善光寺の裏山・・・かつて長野市民のレジャーランドだった地附山




 地附山旧ロープウェイ山頂駅の北東側には、ちょっとした広場があります。
現在では県警のモトクロス練習場になっていて、練習用の古タイヤが地面に転がっています。

 ここは、ロープウェイを降りて、スキー場や動物園などに向かう人たちが、必ず通過したところ。
 牛乳会社やフィルム会社などの名前が入ったベンチ(バス停などで時々見かけますよね)が並んでいて、地附山山頂の賑わいの中心地でした。

 この広場の北側の雑木の中で発見したのが灯篭のような形をした木製の物体




 40年前の記憶の底に光を当てて、思い出してみるのですが・・・・・いわゆる「街頭テレビ」ではなかったかと思うのですが・・・・確信が持てません
 記憶の片隅には、この広場に降り立ったとき、この物体付近から野球?を中継するような音が聞こえ、テレビのような動く画像を横目で眺めながら、広場東側の観光用のリフト乗り場に向かった光景がうっすらと残っているのですが・・・・まったく定かではありません。

 もし街頭テレビの台であるなら、今の時代、ある意味で昭和文化の歴史的遺産ですね。
どなたかご存じであれば教えていただきたいのですが・・・・・・・・  


Posted by kasayan at 02:11Comments(0)昭和の長野へ

2009年11月29日

善光寺40年前(番外編)

 ずっとずっと気になっていても行けなかった場所というものがあります。
今日も引き続き善光寺40年前番外編。
 善光寺の裏山・・・地附山




 かつて旧長野市街地に最も近いスキー場が地附山山頂のスキー場。
善光寺裏、桜坂の上から善光寺ロープウェーに乗り、山頂駅にたどり着いて徒歩数分。
 雪の少ない地附山にあって、山頂北側の雪の溶けにくい緩やかな斜面は、飯綱山を望む子供向けのゲレンデでした。

 小学生の私が持っていたスキー靴は、靴ひものある皮製。
ゴム長靴を皮ベルトでスキーにくくりつけるスキーが多かった時代の自慢の一品。
 そのスキー靴をはいて本格的なスキーデビューをしたのがここでした。




 ゲレンデにリフトは存在せず、モーターで動くロープにつかまった人を引き上げる方式。
必死にロープにつかまるのですが、バランスを崩すとのけ反って転ぶのが難点。
 一人が転ぶとドミノ倒しのごとく後ろの人も・・・・




 小学校高学年になった私は、このスキー場では物足りず、飯綱スキー場へ
しばらくここに足を運ばないでいるうちに、いつの間にかスキー場は廃止になっていました。

 モーターやロープをささえていた滑車は、40年の歳月を重ね、雑木の生えたゲレンデの中に埋もれていました。

   


Posted by kasayan at 16:41Comments(0)昭和の長野へ

2009年11月28日

善光寺40年前(番外編)

 ずっとずっと気になっていても行けなかった場所というものがあります。
今日も善光寺40年前番外編。
 善光寺の裏山・・・地附山




 地附山山頂の裏側には、地滑り以降に廃道となったバードラインが木々に埋もれています。
ここは、地附山から大峰山へと続く長い直線

 バードライン経由戸隠行きのバスに乗り、桜坂上のロープウェイ乗り場を過ぎると、道はつづら折りの急坂になり、地附山山頂の北側へと回りこみます。
 そして、山頂スキー場の下を通り過ぎると、バスはこの直線でスピードを上げていきました。

 高校生のころ、生物班に所属していた私は、月に最低1回は、徒歩でこの場所に足を運んでいました。 このガードレールの外側に、試薬の入ったガラスの臭気瓶(理科の授業で酸素の燃焼実験に使うやつです)を沢山置いてCO2濃度を測定し、自動車による自然破壊を観察していたわけです。




 道端に瓶が沢山入ったバックを置いていて車に踏みつぶされてしまったこと・・・夏の午後、突然の夕立に濡れていたら、通りすがりの車が雲上殿まで乗せていってくれたこと・・・・
 
 高校生のころ、心配していた自然は、力強く人間の仕業を消し去っていました
  


Posted by kasayan at 16:45Comments(0)昭和の長野へ

2009年11月27日

善光寺40年前(番外編)

 ずっとずっと気になっていても行けなかった場所というものがあります。
 今日からしばらく、善光寺40年前番外編
 善光寺の裏山・・・地附山

 地滑り以降、登山できる雰囲気ではなかったのですが、ボランティアの方々の努力によって素晴らしい遊歩道が完成したことを知り行ってきました。

 かつて長野市民のレジャーの中心地のひとつだった地附山山頂。 
子供の頃、町の育成会のイベントや、家族の行楽に何度も訪れたところ。

 山頂までは、桜坂の上から善光寺ロープウェーを利用。
 山頂のスキー場に行くときは、スキーをゴンドラの外にくくりつけるため、スキーが飛ばされないかとハラハラしながら、小さくなっていく善光寺を眺めていたものでした。









 そんなロープウェーの山頂駅も今では階段状のコンクリート製発着場駅の土台を残すのみ。
変わり果てた土台を見ながら、小学校の窓からゴンドラが山頂駅に吸い込まれていく姿をぼんやりと眺めていたことを思い出していました。
  


Posted by kasayan at 19:30Comments(0)昭和の長野へ

2009年11月26日

善光寺40年前

 ご存じ、大門から善光寺参道への入口
今では大門通りも石畳になっていますけど、それまではここが石畳のスタート地点でした。





 石畳に沿って本堂にたどり着くまでには、宿坊や仲見世をはじめ、数多くの店が立ち並んでいますが、その昔、善光寺に向かう時、第一番目に出会うお店が、石畳スタート地点左側にあった甘栗屋さんでした。
 お祭りの屋台とは違い、周囲が紅白に彩られたトタンでおおわれているそれなりのお店。

 小布施の栗が有名な長野にあって、売っている栗はなぜか「天津甘栗」
店の中のカマで小石と栗を撹拌しつつ、この交差点に香ばしい栗の臭いを漂わせていました

 今でこそ、スーパーなどで天津甘栗を買うことができますが、昔は旧長野市内で唯一、常時天津甘栗を買うことができたお店
 子供の私にとっては高価だったので、特別なときにだけ買ってもらえました。

 残りの栗の数を数えながら少しずつ食べる癖は、今でも抜けていません。
  


Posted by kasayan at 18:59Comments(0)昭和の長野へ

2009年11月25日

善光寺40年前


 これ善光寺の山門





 山門北側両脇には、内部を見学するための階段が設置されています。

 40年前・・・いや・・もっと最近まででしょうか・・・
この場所には、ハトにくれる(長野の方言ですね・・・「あげる」「やる」ことをこういうんですよね)豆を売っているオバさん・・・お婆さんだったかな?・・・がいました。
 小さなコタツにあたりながら、直径10センチほどの使いこんだ木製のお皿の上に、黄色い豆を十数粒並べていました。

 私の記憶の中では、この二人のお婆さんが山門の景色と一体化しています。
 現在の山門の姿を見るとき、山門の上にかかげられている額ほどの重要一部が欠けたように思えるのです。  


Posted by kasayan at 18:10Comments(2)昭和の長野へ

2009年11月23日

善光寺40年前

 善光寺の東へちょっと離れて、城山公園
大きな噴水は40年前にもありました。





 ただ、中心の噴射口?は、写真のようなものではなく、石を積み上げた・・・城山動物園の猿山のような形。

 無意味?に高く噴水が上がっていて、強い風の日にはベンチで語らうカップルの頭上に、予期せぬ雨?を降らせていました。

 周囲にある幅50センチほどの円形の縁は40年前のまま
 この縁の上を自転車で一周できるのか?という無謀でバカな高校生がいたのですが、一周する前に自転車ごと水につかることになりました(私の友人です)。

 また、善光寺裏のつばめ池の水を抜く機会に、つばめ池では「大釣り大会」が開催され、沢山のコイやフナが捕獲され、この噴水に放流?されたことがありました。
 さながら権堂にある鯉店のいけすのようでした。  


Posted by kasayan at 16:30Comments(1)昭和の長野へ

2009年11月22日

善光寺40年前


 善光寺仲見世通りの北側には東西に道路がはしっています。





 この写真は、城山小学校側から西に向かって撮ったもの。
今は参道を横断して車は通行することができません

 ここも40年前、路線バスがあたりまえのように通行することができました。
普通車がどうだったか?は、家に車がなかったので記憶にありません。

 飯綱スキー場に行くときは、六地蔵の背中側にあったバス停までスキーをかついでいき、そこからバスで今はなきバードラインへ。
 戸隠や飯綱へ行くバスはここを通過していました。
 (地附山ロープウェー乗り場へ行く時も、ここからバスに乗りました)

 善光寺の境内は、今より生活の一部になっていたような気がします。  


Posted by kasayan at 07:30Comments(0)昭和の長野へ

2009年11月20日

善光寺40年前

  この写真、はおなじみの仁王門





 善光寺に向かって仁王門の左側には舗装されたスロープがあります。

 今では車が通行するにしても、工事や荷物の搬入など、特別に用事のある車に限られていると思われます。

 ここも40年前、少なくとも夜や早朝に限っては、車が自由に通行することができました
たしか、スロープに交通標識が立っていて、通行可能時間帯が表示されていたという記憶があります。

 まだまだオート三輪が走っているような時代のこと

 車社会の現在だったら、観光客の車で大渋滞?になったかもしれませんね。  


Posted by kasayan at 07:30Comments(0)昭和の長野へ