2009年11月04日

長野の天気予報番組に思う

長野に帰ってきて思うのは、テレビの天気予報番組が貧弱なこと。

関東キー局の天気予報は、すべて気象予報士が出演して、明日の天気が「どうなるのか」「なぜなのか」ということについて、上手下手はあっても、それなりに解説をしています。
にもかかわらず・・・・・・・


私、Kasayanは、天気予報の”解説”というものは、「天気予報がはずれたとき」をイメージさせる重要なものだと考えています。
天気予報が100%当たるものであれば解説など必要がありません。
解説は天気予報が「はずれる可能性があるのか?」「はずれたらどうなるのか?」を考えさせてくれる道具だと思うのです。
いわば、天気予報がはずれることのリスクを伝達する重要な手段。

日本では天気予報の当たりはずれは、あたかも競馬の予想のように考えられて、かつては天気予報がはずれたらキャスターが頭から水をかけられるなどという番組さえありました。
しかし、天気予報というものは、自然現象を予測するものであって、今の科学では絶対的なものではありません。
したがって、天気予報は博打とは違って、予報の「確からしさ」を正直に伝え、ユーザーにリスクの可能性を考える機会を与え、行動の手助けをするものでなければならないのです。

Kasayan自身、天気予報番組を制作していたことがありましたが、独自に予報を作る際、「今日の○○地方の予報はひょっとしたらはずれるかもしれない」などと考えていました。
そして、その正直な気持ちを視聴者に伝達する唯一の方法が天気図を使った”解説”でした。

(注)この天気図は以前作ったもの・・・使用不可




ところが・・・・・
長野では(長野ローカルの番組では)気象予報士が出演している番組でさえ、表示されている天気マークの傾向を読み上げているだけ。
そして、最も気象予報士であることが必要とされる天気図の解説も、気象庁のホームページに書かれている概況を読んでいるだけ。
アナウンサーが担当している番組にいたっては、電話の177の内容(気象庁発表予報の読み上げ)とかわりありません。

画面に表示されているマークの傾向を読み上げるだけなら誰にだってできます。
インターネットに書かれている概況なら自分で読めば良いのです。

そんな天気予報番組を作っているのは、関東に本社がある気象会社。
一人の担当者が多くの放送局の原稿を書ければコストダウンになるわけですから、市場原理とはいえ、天気予報の世界でも地方が置き去りになっているわけです。


そして・・・・・偉そうなことを言ってもKasayan自身、遠く故郷の長野を離れて長野の某局の天気予報番組の企画をしたり、原稿を書いたこともありますから、長野をはじめ地方の天気予報をここまで時代遅れにしてしまった犯人の一人です。

関東ローカルの天気予報がどれだけ良いか・・・と言われれば、大したことはありませんけど、それにしても・・・・・・

長野という地方の性質上、目先の海難事故に直結する沿岸部の県に比べて、天気予報の重要性は低いのでしょうか?
目先の表現は変わっていても、その内容はKasayanが上京した30年前の天気予報のままで十分足りているのでしょうか?


色々考えさせられながら日々天気予報番組を眺めています。  


Posted by kasayan at 19:51Comments(0)長野の天気予報番組